※本コラムは、心理学者および臨床心理士によって、日常に役立つであろう心理学の知識を、毎月連載ものとして記載しています。無断の転載や複製は遠慮願います。

ユングの『タイプ論』の淵源をたずねて 11

ユングとオカルトをめぐって

さて、今回は、少し横道の話を少し。といいつつ、ユングの理論背景として、重要であるにもかかわらず、世間的に誤解されているようにおもわれること、その本当のところについて、ご紹介いたします。

それは、あたかもユングがオカルトそれ自体の研究者だった、というものです。じつは、この俗説は、ずいぶん昔、どのくらい昔からかというと、ユングが存命中から、しかも専門家の世界でも言われていたものでした。

ユングは、『タイプ論』を刊行した後、西洋の合理主義をすてて、古代のグノーシス主義、錬金術などの研究した神秘主義者とみなされることがありました。それは全くユングの研究の目的を誤解したり、その真意を知らなかったりして生まれた俗説でした。ユングは、キリスト教で異端とされたグノーシス主義を信仰したり、卑金属(鉛など)を貴金属(金・銀など)に変成をこころみる錬金術師になろうとしたりしたのではありませんでした。

俗説がいったん広まると、なかなか事実がそれにとってかわることは難しいようで、それは今でも払しょくされずにのこっています。

①ユングとグノーシス主義

グノーシス主義とは、正統のキリスト教からは異端と目された、紀元3~4世紀に隆盛した、反宇宙論的二元論と呼ばれる世界観が特徴の宗教・思想です。それは、善と悪、真の神と偽の神、霊と肉体、イデアと物質といった二元論でこの世界をとらえようとしました。 ところで、ユングの関心が、この特定の世界観=特定の教義にあったわけではありませんでした。J.J.クラーク著『ユングを求めて』によれば、ユングは、グノーシス主義の形而上学的な教義には、経験を超越しているものとして扱わない立場をとりました。あくまでその世界観は、人間の心が世界に投影したものという立場をとりました。

ユングは、グノーシス主義者が正統のキリスト教の教父よりはるかに強く悪の存在を意識していたことを認めました。そして、正統キリスト教が悪というものを全く消極的な見えないもののようにあつかう――いわゆる「善の欠如」というかたちで――ことで、悪の存在を無化しようとしたのに対して、グノーシス主義者たちが、存在する神が善と悪に同等の地位を与えたと、かんがえました。さらに、ユングは、グノーシス主義の中に、宇宙での光の力と闇の力の葛藤というイメージを認め、それと同時に、人間が、人間存在の認められる側面と認めたくない(認められない)側面のどちらももち合わせていて、それが全体性へむけての葛藤というかたちで現れるものだと認めました。

ユングは、グノーシス主義を研究するなかで、基本心的機能、二律背反、内的探求、個人の発達などの暗示を受け、かつ、人間の心的現象のひとつとして、善と悪の葛藤をそこに見出し、それらを全体性とみなし統合する道を模索しようとしたのです。この試みは、ユングの後半生の大きく重要なテーマとなっていきました。

②ユングと錬金術

ユングが錬金術に興味を持ったのは、そもそもの錬金術が、自分自身の中で新しい自分に生まれ変わる「自己変容」、対立する陰陽の力動的相互作用というエネルギー原理を基礎にしているということでした。ユングは、錬金術の歴史的現象には関心を抱いていませんでした。これは、グノーシス主義についてと同じで、錬金術の過程が、人間の心的現象をあらわしていると考えたのでした。ユングは錬金術の作業を調べていくうちに、卑金属から貴金属を 生み出そうとするプロセスが、個性化の過程をあらわしていて、しかもそのことに錬金術師たちは気づいていなかったと考えました。
錬金術の作業過程は、個性化の過程を投影というかたちであらわしているのだ、ということを発見したのでした。
心理学的にいえば、無意識の内容は直接観察できない。すなわち、それは世界という鏡に映し出されてはじめて知ることができるものだと考えたのです。

ユングは、世にオカルトといわれるものを研究対象にし、生涯をかけて探究し続けました。すなわち、ユングは、それらの中に、人間の心が投影されていることを探求し続けたのでした。その心(心的現象)の研究によって、人間の心(意識と無意識の構造)を〈見える〉ようにしてくれたのでした。

(以下、次号へつづく。)